- 漠然と死が怖いとき、怖がっているのは死のイメージかもしれない
- 死が近づくと、恐怖を想像している余裕がなくなる
- 恐怖は消えない。ただ「今日ではない」ことに安心している
死ぬのが怖い。そう思って検索したなら、以前の私と同じです。
私は今、大腸がんのステージ4で治療中です。あちこちに転移していて、もう手術はできません。2025年3月に診断を受けたとき、余命は半年、よくて1〜2年と言われました。それから1年半が過ぎています。だから実際のところ、残りはあと半年かそれくらいだと思っています。
その私が今、実際に何を感じているのかを書きます。あくまで現段階での話です。
死ぬのが怖い理由は、想像の中にある
自分の死というのは、未来の中の出来事ですよね。つまりは想像なのです。
いつ、どうやって、どのように死ぬのか。死因は何なのか。すべては頭の中の想像でしか語れません。これは誰にとっても同じだと思います。
ひとつだけ、わたしが他の方と違うのは「自分の死」の解像度が上がってきていることです。
- いつ?:半年後あたり。
- どうやって?:大腸がんで。
- どのように?:腸閉塞や臓器不全などで。
死への確度が高まってきている。想像が、現実になりつつあるという点です。
死が怖いとき、何を怖がっているのか
診断を受ける前、漠然と死が怖いと思っていた頃があります。あの頃に怖がっていたのは何だったのか。今なら少し分かります。
死というものに対する、イメージです。
存在の喪失、アイデンティティの喪失ですね。自分がなくなってしまうことが怖かった。
ただ、その「自分」を探していったら、見つかりませんでした。頭に浮かぶものにひとつずつ名前をつけて手放していったら、残ったのはシステムの集合体で、中身がなかったのです。
失うものなんて、もともと無かった。
もともと存在しないものを失うことに、意味があるのか?
あまりそうは思えない自分がいます。そうなると、私が失うのは身体だけということになります。
死が近づくと、怖がる余裕がなくなる
恐怖というのは、想像する作業です。そして想像するには、心の余裕が必要です。
今の私に、その余裕はあまりありません。今日を生きることに精一杯だからです。
ここから少し生々しい話になります。苦手な方は次の見出しまで飛ばしてください。
下剤をしっかり飲んで、大腸が詰まらないようにする。そして全身に力を込めて便を押し出しているのです。出さないと詰まってしまうので必死です。お尻を拭くトイレットペーパーは血だらけです。
この1年半、ずっとそうなので、この日々に対して何か悲壮感とか感じているのか、というとそうでもないんですよね。むしろ、少しでも便を出せたことに安心します。これで少し楽になるぞと。目の前のお腹の苦しみから少しでも解放されることに、喜びを感じてしまうのです。
死への恐怖は、感じているはずです
もちろん死への恐怖は、感じているはずです。ただ、それを直接つかんだことはありません。食べられたとき、歩けたときに安心する自分がいるので、あるんだろうな、とは思います。
安心するということは、その裏に恐怖があるということですから。
恐怖が、もう特別なものではなくなっているのかもしれませんね。ずっとそこにあるものは、かえって見えなくなる。



そうかもしれません。近くにいすぎて見えなくなっているのかも。
死が今日ではない、という喜び
歩けること。食べられること。出かけられること。友達とおしゃべりできること。自転車に乗れること。
そのたびに、ちょっとした安心感があります。
近づいている死が、まだ先の話だと思える。少なくとも、今日ではない。そこに安心して、まだ生きていることを実感するのです。
死が近い人間のリアルな感覚は、こんなものです。壮絶な覚悟でも、達観でもありません。今日は大丈夫そう、それだけのことです。
死ぬ直前に何を感じるのかは、まだ分からない
実際にまだ死んでいないので、分からないことがあります。死の当日、その直前に自分が何を感じるのか。そこがまだ分からないのです。ここに書いたのは、あくまで現段階での死に対する考えです。
もしあなたが今、漠然と死を怖がっているなら、怖がっているのは死そのものではなく、死のイメージかもしれません。存在がなくなること、自分がなくなること。
私はその「自分」を探してみて、見つかりませんでした。そして今、死が近づいた場所から言えるのは、それが今日ではないというだけで、人はけっこう安心できるということです。
今日、歩けましたか。食べられましたか。死はまだまだ先ですよ。
Yoshi Zippy
