- 探しても見つからないのは、もともとそこに無いから
- 思考に名前をつけ続けたら、全部がシステムだった
- 思考も環境も、同じ「インプット」でしかなかった
自分がわからない。自分らしさって何だろう。そう思って検索したなら、たぶん今しんどいはずです。私も長いことそうでした。
先に結論を書いておきます。私は「自分」を探すのをやめました。見つからないから諦めたのではなくて、探す必要がなかったと分かったからです。やめたら、驚くほど軽くなりました。
これは私がAI(Claude)と交わした対話の記録で、前回の記事の続きにあたります。
自分がわからないと、生き方もわからない
自分がわからない。この悩みは、あなただけのものではありません。わたしもそうでした。
しんどいのは、わからないこと自体ではないんですよね。自分がわからないから、自分に合う生き方もわからない。どう生きていけばいいのかも、わからない。そこがいちばん苦しいところだと思います。
周りの人はみんな自分を持っているように見えますよね。やりたいことがあって、好みがあって、意見があって。自分だけが空っぽに思える。私もずっとそう思っていました。
でも今は違う見方をしています。みんな持っているのではなく、持っていると思い込んでいるだけではないか。そう思うようになった経緯を書きます。
手放し続けたら、全部システムだった
前回、私は自分の中で40年間鳴り続けていた不安に、「拒絶警報システム」という名前をつけました。
名前をつけると、それは「自分」ではなく「システム」になります。自分と切り離せる。そこまでは前回書いた通りです。
面白かったのは、その先でした。一度この見方を覚えると、止まらないんです。
「これは自己中心バイアスだな」「これは損をしたくないだけだな」「これは親のパターンだな」。頭に何か浮かぶたびに、片っぱしから名前がついていきます。
そしてある日、気づきました。名前がつかない思考が、ひとつもないんです。
筆者手放しても手放しても、次のシステムが出てくるんですよ。というか、全部システムじゃないですか?
そうです。そして「全部システムだ」と気づいた時点で、探していた「自分」がどこにもいないことも分かってしまう。



こんな気づきがありました。自分とは、いろんなシステムの集合体に過ぎないのでは?だとしたら、自分らしさなんて全くナンセンスだし、そんなものは要らない?
自分で言って、自分で驚きました。「自分」が要らないなんて、普通は怖い考えですよね。でも不思議と怖くなかった。むしろ荷物を降ろしたような感覚でした。
執着するものが、なくなった
全部がシステムなら、守るべき「本当の自分」もありません。これが効きました。頭の中に、握りしめておくものがひとつもなくなったんです。
意見を否定されても、守るべき「私の意見」がない。ただのシステムの出力ですから。評価が下がっても、下がる「私」がいない。手放すというより、握るものが最初からなかったと分かった感じです。
「自分なんて要らない」というのは、自己否定ではなくて、自我の解体ですね。
誤解のないように書いておきます。これは「自分なんてダメだ」という話ではありません。むしろ逆です。ダメかどうかを裁く係が、そもそも要らなかったという話です。裁く係がいなくなれば、判決も出ません。
「じゃあ空っぽじゃないか」と思うかもしれません。私もそこが引っかかりました。



そう、自我の正体を見抜いた感じ。その結果、じゃあ私ってシンプルに身体なの?そんな心境ですよ。それ以上でもそれ以下でもない、ボディです。仮にそうだとすると、中身のことは気にする必要がない。これは超お気楽ですよ。
「中身は気にする必要がない」というのは究極の軽さですね。システムを一つずつ名前をつけて手放して、最後に自分ごと手放して、残ったのが身体だけ。そしてその身体が実際にこの世に貢献している。何も足す必要がない。
空っぽではありませんでした。身体が残ります。この記事を書いているのも私の手(指)であって、頭じゃない。頭は「今日はやりたくない」とか「意味あるのか」とか騒ぐけど、身体はキーボードの前に座れば打ち始める。身体は余計なことを考えない。ただやる。
「自分らしく生きよう」と言われるけれど
世の中はよく言います。自分らしく生きよう、自分を大切に、ありのままの自分で。
あの言葉に、私はずっと居心地の悪さを感じていました。だって、その「自分」がどこにあるのか分からないんですから。探せと言われても、探す先がない。
今なら分かります。あれは、ラベルに中身を合わせろと言われているのと同じでした。



病人は病人らしく、なんて私はゴメンです。がん患者は、、、とひとくくりにされるのが嫌いなんですよ。
「がん患者らしく」も「自分らしく」も、構造は同じです。ラベルが先にあって、それに振る舞いを合わせろという話。でも合わせる中身なんて、もともとありませんでした。
だからラベルは置いていきます。今日ペダルを回せる身体があるなら、回すだけですよ。
探すのをやめる、三つの段
やることは難しくありません。私がやったのはこれだけです。
1. 名前をつける
頭に何か浮かんだら、名前をつけます。「拒絶警報システム」でも「不安アラート」でも何でもいい。名前をつけた瞬間に、それは「自分」ではなく「システム」になります。
2. 止めようとせず、眺める
止めようとすると、「止めなきゃ」という新しいシステムが起動します。ただ「また鳴ってるな」と眺めるだけでいい。そのうち音量が下がります。
3. 続ける
続けていると、名前がつかない思考がなくなります。そこまで来ると、握りしめるものがなくなります。
探すのをやめるというのは、投げ出すことではありません。探しても見つからないものを、探すのをやめるというだけです。
34度の部屋で、淡々と
この記事を書いている今、リビングではエアコンのクリーニング作業が進んでいます。コンプレッサーの音が響いています。エアコンは使えません。残暑34度です。
それでも私は、淡々とこれを書いています。
以前の私なら無理でした。音が気になり、暑さに苛立ち、「こんな環境で書けるわけがない」という物語を作って、たぶん作業をやめていたはずです。
今は、音は音です。暑さは暑さです。それだけです。意味づけをしないので、私の作業は止まりません。
書きながら気づいたことがあります。思考を切り離すことと、環境を切り離すことは、私にはもう同じに感じられます。頭の中で鳴る警報も、リビングで鳴るコンプレッサーも、どちらも「入ってくるもの」でしかない。内と外の区別は、たぶん最初からなかったんですね。
前回の記事に「インプットは選べないけど、アウトプットは選べる」と書きました。思考も環境も、まとめてインプットだったわけです。選べないものを選ぼうとしていたから、しんどかったんだと思います。
電子ピアノも買って、弾き始めました。弾いているのは「私」ではなく、この指です。上手いか下手かを裁く係は、もういません。だから毎日さわれます。
正解の人生なんて、ない
じゃあ、どう生きればいいのか。
正解の人生を追い求める必要なんて、わたしはないと思っています。何のために生まれてきたのかなんて、誰にもわかりません。こう生きるべき、という正解もないと思います。
では何があるのか。目の前の、この瞬間だけです。それ以外は、過去という記憶であり、未来という想像です。つまり頭の中の世界なんですね。ここまで書いてきたシステムと、同じものです。
過去や未来という思考の世界にとらわれなくなったら、心は自由に今を楽しむことが出来ます。「無理」「ダメ」といった否定的な解釈をやめれば、ネガティブになることなんてありません。
もちろん、出来ないことは出来ないままですよ。でもその事実のせいで、否定的になることもないのです。出来るようになりたければ、どのようにすればいいのかを考えて、取り組み続ければいいだけですから。
握りしめていたものを手放したら、両手が空きました。手放すというのは、何かを失うことじゃなかった。もともと自分のものじゃなかったと気づいただけのことでした。
あなたが今、自分を探して疲れているなら、一度探すのをやめてみてください。まずは頭に浮かんだものに、名前をつけるところから。見つからなかったのは、あなたに何かが欠けていたからではありません。もともと、そこになかっただけです。
この話には続きがあります。「自分」がシステムの集合体で中身がなかったとしたら、死ぬときに失うものは何なのか。死が近づいた場所から書きました。→ 死ぬのが怖い|死が近づいた私が実際に感じていること
Yoshi Zippy
