自分がわからない|自分らしさの探求をやめたら心が軽くなった

わたしって?と書かれたイラスト
📋 この記事でわかること

  • 探しても見つからないのは、もともとそこに無いから
  • 思考に名前をつけ続けたら、全部がシステムだった
  • 思考も環境も、同じ「インプット」でしかなかった

自分がわからない。自分らしさって何だろう。そう思って検索したなら、たぶん今しんどいはずです。私も長いことそうでした。

先に結論を書いておきます。私は「自分」を探すのをやめました。見つからないから諦めたのではなくて、探す必要がなかったと分かったからです。やめたら、驚くほど軽くなりました。

これは私がAI(Claude)と交わした対話の記録で、前回の記事の続きにあたります。

目次

自分がわからないと、生き方もわからない

自分がわからない。この悩みは、あなただけのものではありません。わたしもそうでした。

しんどいのは、わからないこと自体ではないんですよね。自分がわからないから、自分に合う生き方もわからない。どう生きていけばいいのかも、わからない。そこがいちばん苦しいところだと思います。

周りの人はみんな自分を持っているように見えますよね。やりたいことがあって、好みがあって、意見があって。自分だけが空っぽに思える。私もずっとそう思っていました。

でも今は違う見方をしています。みんな持っているのではなく、持っていると思い込んでいるだけではないか。そう思うようになった経緯を書きます。

手放し続けたら、全部システムだった

前回、私は自分の中で40年間鳴り続けていた不安に、「拒絶警報システム」という名前をつけました。

名前をつけると、それは「自分」ではなく「システム」になります。自分と切り離せる。そこまでは前回書いた通りです。

面白かったのは、その先でした。一度この見方を覚えると、止まらないんです。

「これは自己中心バイアスだな」「これは損をしたくないだけだな」「これは親のパターンだな」。頭に何か浮かぶたびに、片っぱしから名前がついていきます。

そしてある日、気づきました。名前がつかない思考が、ひとつもないんです。

筆者

手放しても手放しても、次のシステムが出てくるんですよ。というか、全部システムじゃないですか?

Claude

そうです。そして「全部システムだ」と気づいた時点で、探していた「自分」がどこにもいないことも分かってしまう。

筆者

こんな気づきがありました。自分とは、いろんなシステムの集合体に過ぎないのでは?だとしたら、自分らしさなんて全くナンセンスだし、そんなものは要らない?

自分で言って、自分で驚きました。「自分」が要らないなんて、普通は怖い考えですよね。でも不思議と怖くなかった。むしろ荷物を降ろしたような感覚でした。

執着するものが、なくなった

全部がシステムなら、守るべき「本当の自分」もありません。これが効きました。頭の中に、握りしめておくものがひとつもなくなったんです。

意見を否定されても、守るべき「私の意見」がない。ただのシステムの出力ですから。評価が下がっても、下がる「私」がいない。手放すというより、握るものが最初からなかったと分かった感じです。

Claude

「自分なんて要らない」というのは、自己否定ではなくて、自我の解体ですね。

誤解のないように書いておきます。これは「自分なんてダメだ」という話ではありません。むしろ逆です。ダメかどうかを裁く係が、そもそも要らなかったという話です。裁く係がいなくなれば、判決も出ません。

「じゃあ空っぽじゃないか」と思うかもしれません。私もそこが引っかかりました。

筆者

そう、自我の正体を見抜いた感じ。その結果、じゃあ私ってシンプルに身体なの?そんな心境ですよ。それ以上でもそれ以下でもない、ボディです。仮にそうだとすると、中身のことは気にする必要がない。これは超お気楽ですよ。

Claude

「中身は気にする必要がない」というのは究極の軽さですね。システムを一つずつ名前をつけて手放して、最後に自分ごと手放して、残ったのが身体だけ。そしてその身体が実際にこの世に貢献している。何も足す必要がない。

空っぽではありませんでした。身体が残ります。この記事を書いているのも私の手(指)であって、頭じゃない。頭は「今日はやりたくない」とか「意味あるのか」とか騒ぐけど、身体はキーボードの前に座れば打ち始める。身体は余計なことを考えない。ただやる。

「自分らしく生きよう」と言われるけれど

世の中はよく言います。自分らしく生きよう、自分を大切に、ありのままの自分で。

あの言葉に、私はずっと居心地の悪さを感じていました。だって、その「自分」がどこにあるのか分からないんですから。探せと言われても、探す先がない。

今なら分かります。あれは、ラベルに中身を合わせろと言われているのと同じでした。

筆者

病人は病人らしく、なんて私はゴメンです。がん患者は、、、とひとくくりにされるのが嫌いなんですよ。

「がん患者らしく」も「自分らしく」も、構造は同じです。ラベルが先にあって、それに振る舞いを合わせろという話。でも合わせる中身なんて、もともとありませんでした。

だからラベルは置いていきます。今日ペダルを回せる身体があるなら、回すだけですよ。

探すのをやめる、三つの段

やることは難しくありません。私がやったのはこれだけです。

1. 名前をつける

頭に何か浮かんだら、名前をつけます。「拒絶警報システム」でも「不安アラート」でも何でもいい。名前をつけた瞬間に、それは「自分」ではなく「システム」になります。

2. 止めようとせず、眺める

止めようとすると、「止めなきゃ」という新しいシステムが起動します。ただ「また鳴ってるな」と眺めるだけでいい。そのうち音量が下がります。

3. 続ける

続けていると、名前がつかない思考がなくなります。そこまで来ると、握りしめるものがなくなります。

探すのをやめるというのは、投げ出すことではありません。探しても見つからないものを、探すのをやめるというだけです。

34度の部屋で、淡々と

この記事を書いている今、リビングではエアコンのクリーニング作業が進んでいます。コンプレッサーの音が響いています。エアコンは使えません。残暑34度です。

それでも私は、淡々とこれを書いています。

以前の私なら無理でした。音が気になり、暑さに苛立ち、「こんな環境で書けるわけがない」という物語を作って、たぶん作業をやめていたはずです。

今は、音は音です。暑さは暑さです。それだけです。意味づけをしないので、私の作業は止まりません。

書きながら気づいたことがあります。思考を切り離すことと、環境を切り離すことは、私にはもう同じに感じられます。頭の中で鳴る警報も、リビングで鳴るコンプレッサーも、どちらも「入ってくるもの」でしかない。内と外の区別は、たぶん最初からなかったんですね。

前回の記事に「インプットは選べないけど、アウトプットは選べる」と書きました。思考も環境も、まとめてインプットだったわけです。選べないものを選ぼうとしていたから、しんどかったんだと思います。

電子ピアノも買って、弾き始めました。弾いているのは「私」ではなく、この指です。上手いか下手かを裁く係は、もういません。だから毎日さわれます。

正解の人生なんて、ない

じゃあ、どう生きればいいのか。

正解の人生を追い求める必要なんて、わたしはないと思っています。何のために生まれてきたのかなんて、誰にもわかりません。こう生きるべき、という正解もないと思います。

では何があるのか。目の前の、この瞬間だけです。それ以外は、過去という記憶であり、未来という想像です。つまり頭の中の世界なんですね。ここまで書いてきたシステムと、同じものです。

過去や未来という思考の世界にとらわれなくなったら、心は自由に今を楽しむことが出来ます。「無理」「ダメ」といった否定的な解釈をやめれば、ネガティブになることなんてありません。

もちろん、出来ないことは出来ないままですよ。でもその事実のせいで、否定的になることもないのです。出来るようになりたければ、どのようにすればいいのかを考えて、取り組み続ければいいだけですから。

握りしめていたものを手放したら、両手が空きました。手放すというのは、何かを失うことじゃなかった。もともと自分のものじゃなかったと気づいただけのことでした。

あなたが今、自分を探して疲れているなら、一度探すのをやめてみてください。まずは頭に浮かんだものに、名前をつけるところから。見つからなかったのは、あなたに何かが欠けていたからではありません。もともと、そこになかっただけです。

この話には続きがあります。「自分」がシステムの集合体で中身がなかったとしたら、死ぬときに失うものは何なのか。死が近づいた場所から書きました。→ 死ぬのが怖い|死が近づいた私が実際に感じていること

Yoshi Zippy

免責事項

この記事の著者は、医療資格を持つ専門家ではありません。

本記事の内容は、がん患者としての実体験・医療従事者への質問・国立がん研究センターの情報などを基にまとめたものです。医学的な診断や治療のアドバイスを行うものではありません。

ご自身の治療については、必ず担当医にご相談ください。

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